サグレスから

 ポルトガルの北西の端、サグレスという町にいます。

 大西洋に突き出た断崖と、ほんの僅かな砂浜と荒れ狂う海と鉛色の空があるだけの、他には何もないような小さな町です。ぬっぺりとした城壁に囲まれた昔の航海学校跡地にある古い建物や灯台くらいしか見るものはないし、時期が時期だけに寒くて雨がちで、海も空も荒れているので旅行者をほとんど見かけません。老夫婦を2組見ましたが、少なくとも1人旅をしている酔狂な人間なんて、この町に僕以外にいないことは確かです。路線バスが通るメインストリートに沿って何軒かレストランや宿があるし、住宅地の中には貸しアパート(今はその中の1軒にオフシーズン料金で泊まっています)も並んでいるので、夏になれば長期滞在する家族連れや若者たちが集まってくるのかもしれませんが、とにかく今は静かなものです。

サグレス

 町は静かだけれど、海鳴りの音はどこに行っても風に乗って耳に届いてきます。天候が悪いとはいえ決して嵐ではないのですが、波の激しさは半端なものではありません。こんな天気でも、猫の額のように小さい砂浜で地元の若者がサーフィンをしています。砂浜がある部分は崖に囲まれた湾状になっていて、大西洋の大波をある程度は防いでくれるのです。しかし外海に面した波を垂直に受ける崖の方では、打ち砕けた波の飛沫が白い幕となって空へと舞い上がるのが見えます。
 午前中、ここから5キロばかり離れた岬の先端に建っている灯台に歩いて行って来ました。その時は空の機嫌が良かったのか、雲が晴れて青空が顔を覗かせていました。
 すると崖を登る波の細かなしぶきに虹ができます。きれいなのでもっと近付いて見てみようと、道路を逸れて崖の方へと歩いて行くと、どんどん虹が近くなります。調子に乗って崖の端から10歩ほどの距離まで近付いた時、突然どぼーっという音とともに崖を越えて海水が垂直に吹き上がりました。5メートルくらい、もしかするとそれ以上あって、攫われることを覚悟しました。すぐに踵を返して逃げたけど、陸の方へ2、3歩走っただけで頭から水を被りました。結構重くて首が痛くなってしまいました。虹どころの話ではなくなってしまいました。おそらく崖の高さは20メートルくらいあるんだろうけど、それを乗り越えてくるとは思ってもいなかったから、怖かったです。とにかく波がきつい場所なのです。

サグレス

 ところでなぜこんな辺鄙で、大波以外何もない町に来たのか。
 ポルトガルでメジャーなサグレスビールをサグレスで飲みたかったから、というのも真っ当な理由の1つではあるんですけれど、はっきり言うと少し恥ずかしいのですが、沢木耕太郎の『深夜特急』の影響です。覚えていますか?実は今もそのくだりが書かれている文庫版の六巻が手元にあります。ユーラシア大陸を横断してきた青年沢木耕太郎が、迷いながら旅の最後に辿り着くのがここ、イベリア半島の西南に突き出ている小さな町で、ここに至ってやっと彼は長い旅の終わりを感じてけじめを付け、最終目的地のロンドンへと向かうことになるのです。
 まだ旅を始めてから2週間くらいしか経っていないので、彼のように長い旅路の果てをここで感じるというわけにはいかないですが、でもどこかしらこの場所には、視覚的なものとは別の意識的な境界線があるように思えてきます。陸が突然ぷっつりと切り取られてしまったような断崖の向こうには青黒い海が広がっているばかりで、今まで確固とした存在感を無意識の内に感じながらなんの迷いもなく大地の上を歩いてきたはずなのにその先が唐突に消失している、という感覚は実際にこの場に立ってみないと分からないかもしれないけれど、驚くほど不安な気持ちになってしまいます。経度上は、リスボンの西にあるロカ岬がユーラシア大陸の最西端なわけですが、そこの石碑に彫られているカモエスの言葉、「ここに地終わり、海始まる」というのは、僕としてはこのサグレスの方が当てはまる気がします。深夜特急の影響受け過ぎでしょうか?

サグレス

 今日の午後、壁の向こう側にある航海学校跡地にいた時、波の向きとは反対側の、波を被る心配のない安全な崖の上で釣りをしていた地元のおじさんに会いました。「釣れますか」と(英語と身振りで)聞くと、小さい銀色の魚が3匹、ビニールの袋に入っているのを見せてくれました。その後彼は何度か崖下の海へ竿を振り、引き上げるたびに糸や仕掛けが絡まっていました。やがて「トゥデイ、ノーフィッシュ」と言って道具を仕舞い、スクーターに乗って帰っていきました。その後すぐに強い雨が降り出して、ちくしょーと言いながらずぶ濡れで借りているアパートに向かって走っていた時、なんだかふと君に会いたくなりました。なぜだか分かりませんが。

 僕は今ユーラシア大陸の東の果てと言えないこともない日本から、遥かな距離と時間を隔てた反対側の西の果てにいて、そしてそこは場所も文化も住んでいる人たちも僕らとは全く異なっているのに、でも足の下に広がる大地はずっと繋がっているのです。とても不思議な気分です。
 雨はさっきまで降り続いていたけれど、いつの間にか止んだみたいです。なので遠くの方からぼんやりと波の音が聞こえてきます。それくらい静かな夜です。

( Sagres / Portugal / 2002 )