6-08 旅の距離感 後編

「何か分からんけど、ハマっちゃった。また来るよ、きっと」

 ガンジス河を眺めながら彼女が言った。
 早朝のガートは沐浴をする人々で溢れていた。橙色の褌一つのサドゥーが銀の器にガンジス河の水を汲み、何事か呟きながら静かに器を傾け、水を聖なる河に戻していた。赤に黄色の筋が入ったサリーと薄紫色のサリーを着た2人の女性が、身体を河に浸し頭に水を掛けていた。裸の子供達が、歓声を上げながら飛び込み、潜ったり水を掛け合ったりしていた。それぞれにそれぞれの沐浴があり、祈りがあった。聖なる何かへの畏敬の念と、自分達のささやかな期待(願望、といった強い性質のものではない気がした)がガンジス河に1つ1つ、流れ出しているようだった。
「そうか?僕はなんだか疲れてしもた。何か買おうと思っても人によって値段が違うし。それに、暑い!」僕は言った。
 まだ7時前にも関わらず、荒涼とした対岸の、その向こうの林の上から登った太陽は強く、隠れる所のないガートを照らしていた。また今日も暑くなりそうだった。傍らにはチャイの屋台があり、僕達はその前の石段に腰掛けていた。
 ネパールからバスを乗り継ぎ、3日前に僕はバラナシに着いた。だが、暑さと人の多さと言い寄ってくる人間への応対で、ほとほと疲れていた。ある程度は予想していたことだったが、やはりインドは実際に相手にしてみると、今まで旅してきたタイやネパールよりも遥かに体力の要る国だった。
 昨日、通りとガートを繋ぐごちゃごちゃした道で、客引きに呼び止められた。その男は結構流暢な日本語で「僕は『深夜特急』という日本のドラマに出たことがあります。出演していた大沢たかおと友達です。だから僕の店に来てください」と話し掛けてきた。驚くべき論理の飛躍であり、とにかくしつこかった。僕は何度も断って歩き出すのだが「ちょっと見るだけ」と言ってずっとついて来た。イライラして「いいかげんにしろ!」と大声で言うと、男はなぜそんなに怒るのか理解できないといった表情になり、いきなり「貧乏人!」と言った。思わず殴りかかりそうになったが、何とか堪えてその場を離れた。再び後ろから「あなた貧乏ねー」と言われたが無視して歩き去った。
「そいつはここでは有名だよ。テレビに出たのは本当らしいし。ここは、そんなやつばっかりだ。真剣に相手するだけ無駄」
左隣に座っている、少しよれよれのTシャツを着ている丸刈りの青年が言った(彼ほど丸刈りの似合う男はそうはいないだろう。頭の形が良いのだ)。彼はインドに3ヶ月、バラナシには2週間ほど前からいるということだった。
「この前なんか、宿屋の前の細い路地あるじゃん、あそこを歩いていた牛の尻を誰かが邪魔だからって引っ叩いたらさ、その牛が暴走しちゃってさ、モー大変だったよ。あれだ、スペインの牛追い祭状態」人懐こい笑顔で彼は言った。「一昨日は一昨日で暗くなってから表の通り歩ってたら、ボン!て音がして上から火達磨の猿が目の前に落ちてきた。多分電線か何かで感電しちゃったんだろうけどさ。もう、無茶苦茶」
「すごいね。私も見てみたかったなあ」右隣の彼女が言った。同感だったが、そんな特殊な状況を笑って話せることに驚いてもいた。
「なんでもありって感じやね」そう言って僕は小さ目のガラスのコップに半分ほど残っているチャイを飲んだ。少しシナモンの香りがする必要以上に甘い熱々のミルクティーは、いくら気温が高くてもつい飲んでしまう、不思議な飲み物だった。
「そこが面白いんだよ、インドは。変な人は多いけどね」
「でも、客引きなんかうざったいと思っててもさ、全然来ないと逆に寂しくなったりするじゃん」青年が彼女の方を見ながら言った。
「いや、それはない。うざいものはうざいよ」彼女が冷静に答える。4ヵ月以上インドを旅行している彼女の顔や腕は、よく日焼けしていた。肩ぐらいまでの髪を後ろで結んでいた。
 僕はチャイのコップに口をつけながら2人のやり取りを聞いていた。最初は水を買うのにも苦労したとか、しつこい客引きの対処法とか、印象に残っている場所とか、そこへ行くまでのバスの乗り心地の酷さだとか、そういう話を聞いていると、だんだん、何だか自分の苦労が取るに足らないことのように思えてきた。百戦錬磨の兵に見えても、それなりに悪戦苦闘していた訳なのだ。
「そうやね、僕はもっとひどい状態を想像してたけど、落ち着いて考えるとそれほどでもなかったし。バラナシでこんなだったら、他も大丈夫な気がする」
「そうそう。慣れだよ、慣れ。1ヶ月以上はインドにいられるんでしょ?だんだん、これが普通に感じてくるようになるよ」
「それもどうかと思うけど・・・。それにデリーはもっとひどいよ」彼女が言う。
「うん。デリー最悪。ここの方がまだマシ」
「これからデリーに行こうとしてるのに、そんな不安になるようなこと言わんといてくれ・・・」
 しかし、言葉ではそう言いながらも、不安はなかった。この国や旅に対する考え方が変わってきたようだった。自分達みたいな旅をする以上、現地の人との関わりを避けて通ることはできない。彼らの間の約束事が通用する場所では僕達は余所者なのであり、程度の大小はあるにせよ、彼らの行動や考え方が僕達の常識と掛け離れていたとしても、それが当然なのだ。その国に暮らす人々やそこに根付いている習慣の間で自分がどういった行動を取り、何を感じ、どう考えるか、その1つ1つの積み重ねが、僕達1人1人の旅を形作っていくのではないのだろうか。ある人はそのギャップに真っ向から立ち向かうだろうし(彼女はこのタイプだ)、ある人は全てを受け入れてしまうかもしれない(彼はこちらのタイプ)。だが、いずれにせよその過程に惹かれて、面白くて、一度味わうと忘れられなくて、僕達は旅に出てしまうのだ。そしてインドはそのギャップが大きく、擦り合わせの行程がより複雑で一筋縄では行かないところが最大の魅力なのだということに気付いた。
 痩せた犬が2匹、時々立ち止まって地面に鼻を近づけながら、目の前を通り過ぎて行った。口髭を生やした男が僕らの横を通って河の近くへ降り、服を脱ぎきちんと折り畳んでから、河の中へ入っていった。僕は残りのチャイを飲み干した。コップの底には溶け残った大量の砂糖が溜まっていた。
「ところでさ、ボートから朝日とか沐浴してるところ見てみたくない?」青年が言った。
「いいねえ。一度河の方から見てみたいと思ってたんやって」僕はすぐに答えた。
「絶対、ふっかけられるよ。最初は30ルピーで契約しても、後で実は30ドルだって言われたり、河の真中で岸に戻りたかったらあと200ルピーだとか言われるんだよ」
「でもせっかくバラナシにいるんだしさ。もったいないじゃん」
「もし、河の真中で止められちゃったらどうするのよ?」
「もちろん、その時は泳ぐ」
「その前に値段交渉はしようよ・・・」僕は笑いながら言った。
「じゃあ私は、ここから君らが泳ぐところを見ていてあげるよ」彼女は、呆れたようにそう言った。
 午前8時近くになり、ガートに照りつける太陽は強さを増し、沐浴する人の数も減ってきていた。首筋にじんわり汗をかいていた。僕らは朝食を食べに行くことになった。
「明日、デリーに行くんやったっけ?」僕は立ち上がって彼女に言った。
「そう。悪夢のデリー。そこから北へ向かうつもり」彼女は軽く伸びをしながら言った。僕もそれにつられて背中を伸ばす。
「インドは広いのー!」
「広いよ。そして、面白い」彼は欠伸をしながら、そう言った。

 電動機が動いている店から漏れる光によって、メインバザールはぼんやりと照らされていたが、停電している街は暗かった。それでも人は多く、ぶつからないように気をつけて歩かねばならなかった。暗がりに、人や牛が浮かび上がる。活気とざわめきだけは、停電でも変わることはないようだ。
 けたたましく警笛を鳴らして無理やり通ろうとするオートリキシャーのライトが眩しかった。台の上にバナナやマンゴーを並べて売っている男が何か言ってくるが、適当に相槌を打ちながら路地を曲がった。少し行った所に、滞在している宿があった。その宿は自家発電しているので、停電とは無縁だった。フロントでペットボトル入りの冷えた水を買い、部屋に戻る。夜でも30度以上はあり、天井の扇風機を回してもあまり効果は無かった。
 でも、それも旅の楽しみなのだ。しつこい客引きも、定まらない値段も、寝苦しい夜も、サスペンションの壊れたバスの狭いシートも、行く先々で出会う色々な人たちも、その全てが、旅を作り上げるかけがえのない欠片なのだ。

 
 腕時計を見ると午前0時を過ぎていた。
 バンコクの安宿の窓から時折外の喧騒が生暖かい風と一緒に入ってくる。レストランやバーが並んでいる辺りには、こんな時間でもいまだたくさんの旅行者が限られた旅の時間を惜しむように集まっているのだろう。
 昼間の熱が抜けていない生ぬるいベッドに仰向けになってぼんやりと天井を見る。
 
「世界は広い。そして、面白い」

 これから、何処へ行こうか?