6-06 触らぬ神に祟りなし 後編

 空は雲で覆われていて、その上多くの店が閉まっているせいで余計に街全体に明かりが少なかった。
 昨晩は、ニューバザール前広場に出ていた「日本人ダイスキ!」と調子のいいことを言う男達がやっていた屋台でうまいマサラドーサーを食べたのだが、今夜は広場もがらんとして暗い。マサラ味のジャガイモ、タマネギ、グリーンピース(ジャガイモコロッケの中身みたいなイメージ)を豆と米から作ったパリッとした薄いクレープ皮で包み、マサラ味と白いココナッツベースの2種類のタレに付けながら食べるドーサーは、ホスペットのバススタンドのレストランで初めて食べて以来大のお気に入りになってしまい、見かけたら必ず食べるようにしていた。今日は同じ屋台のバターチーズドーサーというのを食べてみたかったのだが、とても残念でならない。ちなみに、僕が食べたインド料理の中でベストスリーは、マイソールのバススタンドで食べたマサラドーサー、シムラからマナリに向かうバスが昼食のために寄ったレストランのタマータルパニールカレー(トマトとチーズのカレー)、ゴアのスターライトレストランで食べたバターナンである(そこのカニのカレー炒めも美味しかった)。
 仕方なくどこか適当な店にでも入ろうとしたのだが、観光客向けのレストランではなく、ローカルな店を探そうと思うとなかなか見つからない。薄暗い通りを歩いていると、背の低い男が近づいてきた。
「ハッシシいらないか?いいのあるよ」と彼は声を落として言った。こういうのはしょっちゅうで、いつも適当に相手をするか機嫌の悪い時には完全に無視するなどしていた。わざわざ買ってまでやりたいものでもないし、大概路上で買うものは質が悪い。何よりこそこそしつこく言い寄ってくるのが一番五月蝿い。でも、今回は少し違ったリアクションをしてみようと思い、こう言ってみた。
「ハッシシなんかいらないが、俺は腹が減っている。地元の人が食べに行く美味しい店をどこか知っているか?」
「腹が減っているのか?よし分かった。着いて来い」その男はそう言って、すたすたと歩き出してしまった。
 やがて雑居ビルのような建物の前まで来ると正面ではなく脇に回りこんで、裏口のような所から中に入った。その中は細長い調理場のような場所で男が一人で何かを作っていた。僕を案内した男はその男と何やら言葉を交わし、やがて僕の方を向いて「今日はクローズだ」と行って再びすたすたと外に出て行ってしまった。ここが何処かの食堂の調理場なのかどうかも定かではなく、ビル全体の様子もとても店を開いているような雰囲気ではなかった。それどころか、食堂の勝手口から顔を出して「よ、いつもすまないね」等と言って知り合いの調理人からまかない料理をこっそり貰うような感じであった。一体この男は何を食わせようとしていたのかと不安に思いながら彼の後を歩いていると、今度は軒並み店が閉まっている暗いニューバザールの中に入って行った。
 入り組んだバザール内の暗い通路で1軒の店が営業していた。片側には何かの店が並んでいるが今はシャッターや扉が閉まっている。その反対側の壁際に竈や食器棚があり、通路の中ほどに長方形の木のテーブルとプラスチックの椅子が並べられていた。40代くらいの痩せた調理人が一人、丸い中華鍋のようなもので何かを炒めていた。
「ここだ。ここがうまい」と背の低い男が言った。
「ここがあんたのお薦めなのか?本当に美味しいのか?」と聞いてみたが、鍋からの匂いは結構美味しそうだった。こういう場所で何かを食べる時は、匂いや料理の見た目が全てである。衛生上の問題を考え出せばきりが無い。皿などをきちんと洗っているかどうかは、主人のモラルに任せるしかないのだ。周りが暗いのでゴキブリが歩いていたとしてもよく分からないのは幸運なのだろうか。
「間違いない。うまい。ここでいいか?」
「いいよ。ターリーあるでしょ?ライスとダルと、そのサブジーと、今作っているやつもちょうだい」
「分かった。そこに座って待ってな」そう言って彼は主人にヒンディー語で説明した。
 主人は突然やってきた日本人を少し訝しがりながらも、ステンレスの食器にライスやダルをよそってくれた。味はまあまあだった。ローカルな所で食べるという目的も十分に果たせたわけだ。ライスもダルもサブジーもお代わりして腹一杯になって満足した。「アッチャーカーナー(美味しい食事だった)」とヒンディー語で言ってみたが、主人は良く分かっていないようだった。
「俺に声を掛けたことは幸運だったな。感謝しろよ」と言って、僕は彼の食事代も払ってやった。というと偉そうだが、彼はちゃっかり自分の分も勝手に注文していたのだ。腹一杯食べて2人で40ルピー(約110円)である。
「この近くに俺のボスの店があるんだ。ボスはすごい人なんだ。今日は店はやってないが明日一緒に行くか?何だ、お前は明日バンコクへ行くのか。それは残念だ。ボスの店に行けば良い土産がとても安く手に入るのになあ。バンコクか。俺もいつかバンコクに行ってみたいと思っている。そこで何か商売をやるのさ。ボスのようにな。
 飯はうまかったか?もう俺達は友達だ。そうだろう?友達さ。今度ここに来ることはあるか?ボスは旅行代理店もやっているんだ。インドならどこへ行くのでも安いチケットが手に入るぜ。次来た時は絶対ボスの店に来な。場所はこのすぐ近くだ、何なら今から案内してやろうか?え?暗いから遠慮するって?そうだな。まあ俺はいつもこの辺にいるから、声を掛けてくれればいつでも連れて行くぜ。
 それより明日の飛行機なんだが、どうやって空港まで行く気だ?地下鉄を使うのか?そうか、そりゃ安く行けるなあ。でも結構遠いし乗換えとか大変だぜ。だいたい普通はここからタクシーで行っちまうんだ。その方が早いし簡単だ。そうさ、この辺に泊まっている奴は殆どそうさ。何なら俺がタクシーを手配してやろうか?なあに、ボスの会社のタクシーだから心配はいらない。朝お前の宿の前にタクシーが来る。それに乗れば後は空港までノンストップだ。値段?たった150ルピー。安いもんだろ?
 言っとくがな、ここら辺のホテルでタクシーを頼むと流しのタクシーに乗せられることもあるし、コミッションも取られるから高いんだな。180くらいはするぜ。その点、俺に任せりゃタクシーも専用のやつだから安心だし、値段もチープだ。どうだ?すぐに手配できるぜ。今どこに泊まっているんだ?七時半頃に出発すりゃ十分間に合うぜ。タクシーにしなって。俺達友達だろう?」
 彼は喋りつづけた。食堂を離れ宿の近くまで歩きながらこの調子で喋り続けた。
「どうする?7時半でいいな。あー、あそこがお前の宿か。いや、近づくな。ここでいい。ここで話をしよう。宿の奴らに知られると奴らいい気がしないからな。この話は奴らには内緒だ。絶対喋るなよ。あまり安い値段で乗せると文句を言われちまうからな」
 僕は彼の必死の説得に困り果てていた。タクシーのシステムについては今まで利用したことがないのでよく分からないが、少なくとも彼が怪しい人物だということは分かる。何しろ彼はハッシシを売っていたのだ。どうしたものかと思っていると、宿の入口でこちらを見ていた従業員たちが手招きしているのが見えた。これはいい機会だと思い、彼に別れを行って宿の方へ向かった。
「分かったか?明日7時半にここに来るぞ」
という声が後ろから聞こえた。
「お帰りなさい」
「彼に何か言われた?タクシーのことで?」
「そう。何で分かった?」と僕は聞いた。
「あいつはチンピラみたいな奴なんだ。騙されちゃだめですよ。もしかしてもう申し込んでしまいましたか?」と若い従業員が真剣な顔で言った。従業員といっても、服装はシャツにズボン、いたって普通の格好である。一見すると従業員なのか何なのか分からない。
「あー、いや何か強引で勝手に7時半とか言ってたんだけど」
「タクシーは我々が手配します。絶対彼の言うことを聞いてはだめですよ。絶対トラブルに巻き込まれてしまうでしょう」30代くらいの男が言った。
「値段は150ルピーです。この辺のホテルの統一料金です」これを聞いて、あの男が少なくとも一つは嘘を付いていたことがはっきりした。やはり胡散くさい男だったようだ。
「サンキュー、助かったよ。それじゃあ、明日7時にここを出発したいんだけど。早めに空港に着いていたいから」
「分かりました。七時ですね。それではおやすみなさい」
「おやすみー」
 彼らに挨拶して階段を上り、部屋に戻った。それにしても、何時の間にか地下鉄とバスで空港まで行くつもりが、タクシーになってしまった。でも楽な方がいいか。僕はタオルと石鹸を持って部屋の外にあるシャワー兼トイレに向かった。3つ並んでいるが、昨日真中のシャワー室を使ったときゴキブリがいたから、今夜は左のシャワー室を使うことにした。

 翌朝、6時に起きて蒸し暑い夜の間にかいた汗を流すためにシャワーを浴び、荷造りをしていた。扉をノックする音と「グッドモーニング」という声が聞こえたので、木製の観音開きの扉を開けると従業員と思われる男が立っていた。滞在期間中彼を見かけたことはなかったのだが、チップをくれと言っている。一体何に対してチップを要求しているのか皆目分からなかったので、あなたにあげる物は何もないと言って扉を閉めた。もしかするとモーニングコールだったのかもしれないが、頼んでもいないし既に僕は起きていてシャワーまで使っていた。諦めてもらうしかない。
 だが、荷造りをしながら、不要になった服でも置いていこうという気になった。スピティに行く前に買った安物のフリースのジャケットや穴が開いてしまったジーンズなど、もう着ない服をいくつか選んできちんと畳んでベッドの上に置いた。どうせどこかで捨ててしまおうと思っていたやつである。色は少し褪せてしまっているが、十分着ることができるTシャツもある。
 6時40分頃、タクシーが到着したと先程の男が再びやってきた。昨日の指定の時間には20分も早いが、殆ど準備は終っていたので彼に「この服は使えるものがあったら好きにしていいし、要らなかったら捨ててくれ」と言って、部屋を出て玄関に向かった。
 外には、黄色と黒のツートンカラーで丸っこく古臭いデザイン(インドの国産車アンバサダー)のタクシーが止まっていた。後部座席にリュックを入れて僕は助手席に座った。従業員達に見送られながら、タクシーは細い路地を抜けて大通りに出た。
 運転手は無口そうな30代前半くらいの男だった。少しスピードが早いくらいで運転はまあまあうまそうだった。よく見るとスピードメーターが動いていなかった。タイやカンボジアでもスピードメーターが壊れたバイクをよく見たが、インドは車のメーターも故障しているのか。大通りは想像以上に車で混雑していた。タクシーと自家用車とバスが先を争って走っている。バスの横で止まると、開いた窓から排気ガスと喧しいエンジンの音が飛び込んで来た。
 途中で横道に入り、住宅街のような場所を走り始めた。やがて、道端に井戸を見つけるとその横に止まってペットボトルを持って外に出ていった。洗濯をしているおばさんや歯を磨いている子供達に混じって運転手は井戸水をペットボトルに汲んで、キーを使ってボンネットを開けて冷却水のタンクに水を入れた。今、彼は車のキーを使ってボンネットを開けた。するとキーは抜かれているはずだが、エンジンはかかっている。この車はキーを抜いてもエンジンがかかりっぱなしなのか。どうやって止めるのだろう。強制エンストだろうか。彼はペットボトルに2杯分の水をタンクに入れ終わると、運転席に乗り込みキーを差し込んで車を発進させた。コルカタは意外に大きくいつまでも市街地を抜けなかったが、やがて郊外に入った。しかし、片側の道路沿いには大きなアパートなどが建ち並んでいた。
 出発が早かったので空港にも十分すぎるくらい早く着いてしまった。2時間以上待って飛行機に乗り込んだ。前に座っていた3人組のシーク教徒の男たちが次々にビールを注文し、機内食もお代わりし、余っているロールパンまで貰って更に食べ物を要求しようとしたが、客室乗務員に「これ以上はお出し出来ません」ときっぱり断られていた。
 こんな風に、何事もなく僕はインドを離れた。

( Kolkata / India / 2002 )