5-05 レコンピオバススタンド

 午前6時45分。
 早朝にも関わらず、レコンピオのバススタンドにはバスを待つ人達が40人程いた。リュックを置き寝袋や毛布の上に座っている男達の日焼けした顔はほとんどがチベット系だ。彼らは皆カザへ行くらしかった。僕は6時半発ナコ行き直通バスを待っていたのだが、来る様子が全くない。
 今朝5時半に宿屋の主人に叩き起こされるまでは、7時半発のカザ行きに乗り、ナコで途中下車しようと思っていた。道路が頻繁に崩壊することで運行区間や所要時間が変わり、ナコ行き直通バスも手前の道路の復旧が終了していないため、運休しているという情報を昨日1日かけて得ていたからだ。インドでは1つの情報を得るために東奔西走し、慎重に時間をかけて確認していく必要があるのだ。しかし寝惚けながら部屋の扉を開けた僕に宿屋の主人は、「6時のナコ行きが走るらしいから急げ」と急かし、僕は15分で支度をしてバススタンドに走ったのだ。
 6時50分。どうやら遅れているのではないらしい。やはり昨日の情報通りナコ行き直通バスは来ないようだ。周りの人に確認も取った。誰が悪いという訳でもない。こんな田舎では情報が錯綜するのは当たり前のことだ。しかも道路が土砂で埋まったり、道路自体が崩壊する事故は現実に、頻繁に発生しているのだ。昨日シムラからレコンピオの間でも、修復中の道路の手前でバスを降り、300メートルほど歩き、反対側で待っているバスに乗り換えなければならなかった。亀裂だらけの大岩か、常に小石が転がり落ちているような急斜面に上下左右を囲まれた道路なのだ。路線バスが走ること自体奇跡と言ってもいい。

 長距離バスに乗る場合は、たとえ路線バスであっても指定席を取ることは基本である。道が悪ければなおさらだ。たとえ座席が狭くても硬くても、立っているよりはマシなのだ。
 カザ行きの出発35分前、発券開始時刻の午前7時より5分ほど前に車掌がバス停近くに現れ、切符を売り始めた。待っていた乗客が一斉に車掌の周りに群がり、早朝の涼やかな空気が局所的に数度上昇したかに見えたが、10数人しかいなかったので僅か5分で冷めてしまった。昨日からの座席を継続する乗客(レコンピオで1泊して引き続き乗り継ぐ人)から切符の裏に座席番号を書いてもらい、僕は何人かに割り込まれながらも最後の方に25番の座席を獲得することができた。
 午前7時、本来の座席指定乗車券発売開始時間に5人の欧米人旅行者が車掌の所へやって来た。しかし、もう売り切れてしまっていた。何とも世知辛い世の中だが、世間においては、特にインドにおいてはこういうことはままある。時間前に並んでいても割り込まれて買えないことすらあるのだ(僕の押しが弱いせいかもしれないが)。
 もう座席がないことが分かると3人は諦めたが、残りのカップルの女性が食い下がった。軽くウェーブした栗色の長い髪でデリーのメインバザール辺りで買ったような手染めの長いスカートをはいた長身の30歳くらいのその女性は、端正な顔に似合わず激しく怒り、お手上げといった様子の車掌が行ってしまった後も、しばらくパートナーの男性相手に怒りをぶちまけていた。全ての名詞と動詞に「F○○K」を付けて「時間通りに来たのに買えないなんてどういうことだ」などと連れの男性に捲し立てている。とんだとばっちりを食ってしまった短髪で丸顔の長身のその男性は、最初は一緒に車掌に対しての文句を言っていたものの直ぐに諦め、彼女をなだめることに集中しなくてはならなくなっていた。あそこまで腹が立つというのは、これまでに何度も同じ目に遭っているからに違いないと思いながら、僕は小道の反対側で手に持った切符をそそくさと肩掛カバンの中に仕舞い、少し下にあるチャイ屋へ向かった。それにしても、欧米の女性というのは感情表現が明確で直接的で強烈である。
 チャイを1杯注文し、店の若者がポットに茶葉とミルクを追加し火力を強めたところでバスのクラクションが聞こえた。近くの木製の縁台に腰掛けてチャイを啜ったり待っていたりしていた人が慌てて立ち上がってバスの方へ小走りに向かっていった。僕はうろたえてバスとチャイ屋の若者を何度か交互に見て、「ごめん。バスが出てしまうから」と言って急いでバスに乗り込んだ。多分こういうことがしばしばあるのだろう、若者は変わらない様子で用意した空のグラスを仕舞い始めた。彼には申し訳ないが、出来立ての熱いチャイを無理に飲み干して火傷するよりはいい。しかし朝食代わりにしようと思っていただけに何とも心残りではある。袖引かれる思いで車窓からチャイ屋を眺める僕を乗せ、バスはカザに向けて発進した。

 車内は酷く混んでいた。通路にも人が立っていて乗るにも降りるにも困難な状態だった。吊革はないので天井に固定されている何本かのパイプを掴んで身体を安定させていた。先程早々に座席指定乗車券を諦めたヨーロピアン3人組は少し前の通路に立っていた。黒い羊のような短髪で、眼鏡を掛けている身長180センチくらいの若い男と、濃い目の長い金髪を後ろで纏めている165センチくらいの大人っぽい顔立ちの女性と、160センチほどの少しウェーブがかかった黒くて長い髪を2つで括っている若い女性だ。3人でずっと何か喋っていたが、時間が経つにつれて疲れてきたのか口数が少なくなっていった。窓際は風が吹き込む(砂埃も大分入ってくるが)ので割合涼しいのだが、車内が込んでいるために風が抜けず、立っている人にとっては少し蒸し暑かったせいもあるだろう。それに、とてつもなくバスは揺れるのだ。その他には、運転席寄りの方に座席番号を手に入れられなくて激怒していた女性とその連れの男性が立っていた。

 僕の座席は25番で後輪の上辺り、2人掛けシート左側の窓側だった。右隣にはカザまで行くという黒皮のジャンパーを着た学生風の若者が座っていた。しかし途中でどっと乗リ込んできたオバサン達のおかげで彼の状況は一変してしまった。この地方独特の緑色のフェルトを使った円筒状の帽子を被り、チベット女性の定番である様々な色で織られた前掛けを付けたオバサンは、まず彼の右腿の上に座った。もちろん若者が承知したからであって、セクハラではない。こういう込み合った車内では無理やりスペースを空けさせたり、人の腿の上に座るというのは当たり前のようだった。持ちつ持たれつの精神なのか。僕もなるべく身体を小さくして座っていた。
 窓からは山側しか見えず、上からのしかかるように張り出した岩や、道路のきわまで押し寄せている石や砂利を見るたびに、不安な気分になった。多少の土砂が道を覆っているくらいならバスはそれを乗り越えてしまう。そのたびにバスのエンジンが唸りを上げ、バスは必要以上に上下し、身の危険を感じるくらい左右に揺れた。もちろん、谷側にガードレールのような気の利いた設備はなく、500メートルほど下を流れるサトレジ川の急流が見えるだけだ。幸い座席が山側なので、そんな恐怖の奈落を見ないで済むのがせめてもの救いだったが、転落してしまえばどこに座っていようと同じだなと、右の方に大きく傾くたびに足や腕に力を込めて踏ん張りながら(踏ん張ってもどうしようもないのだが)、そんなことを考えた。大袈裟ではなく、死を覚悟したのは1度や2度ではない。死を覚悟することなど一生で1度か2度くらいで十分なものだが、既に三生分は覚悟してしまった。
 しかし僕の密かな絶体絶命感をよそに、地元の乗客は極めて余裕の表情で世間話などしながら座っていた。だから僕も、「バスの中で1人で怖じ気立っていてもしょうがないのだ、落ちるときは皆一緒だ」と思うことにした。それでもインド人のおじさんがちょっとびくびくしているのを発見した時は、親近感を感じてちょっと安心した。
 ふと気が付くと、右隣にオバサンがいた。若者は何処へいったのだろうと不思議に思ってよく見ると、シートとオバサンの間に挟まれ苦しそうにしていた。気の毒に思ったが、どこの世界でもこういうオバサンに勝てる人間はいない。僕は窓側で良かったと思いながら、少しでも若者が楽になることを祈って、更に身体を小さくする努力をした。

 途中、谷の手前でバスが止まった。両側が高い崖でそのまま谷底の川に向かって斜面が続き、川から3分の1辺りに道路が作られている。谷には、バスやトラックが一台づつしか通れないような巾の鉄製の吊橋が架っていた。バスはその吊橋の手前で止まったのだ。すると、乗客が次々に降りていく。なんだろうと思っていると歩いて橋を渡り始めた。僕も周りの人達に合わせてバスを降りて吊橋を渡った。車内にはドライバーとお年寄りなど数人が残っているだけだ。乗客が歩いて渡り切った頃合を見計らって、バスが発車し吊橋を渡り始めた。バスがゆっくり渡り終えこちら側に辿り着くと、再び乗客たちはバスに乗り込み元の席に座った。多分、吊橋に重量制限があって、乗客を乗せたままでは制限重量を超えてしまうのだ。こういうこともこの路線では日常のことなので、乗客たちも慣れた様子で行動していた。少し戸惑っていたのは余所者の僕達くらいだった。

 何はともあれ3度目にして、遂にスピティに足を踏み入れることができたのだ。これだけでも良しとしなければいけない。マナリでクンザン峠が開通するのは20日後と言われた時には諦めようかとも思ったが、気を取り直してインドの南を駆け足で回り、舞い戻った。しかし、何となくクンザン峠の除雪よりも土砂崩れの修復の方が早いだろうと思い、マナリではなくシムラへ行った。予想通り道路は復旧していて、肝を冷やす場所が何箇所かあったとはいえ、無事にスピティ入りすることができた。ちなみに、この時点でクンザン峠は未だ開通してはいなかった。通れるようになるのは、更に1ヶ月後のことである。

( Reckong Peo / India / 2002 )