5-02 スピティへの道 02

〈2002年4月28日〉

 ダラムサラを午後9時頃出発したシムラ行き夜行路線バスは、真っ暗な道を順調に走っていた。僕の席は左側最前列なので、目の前に乗降口があった。走り出した頃は、ステンレス製で円筒状のインド式弁当箱を手に持った仕事帰りらしき男達がたくさん乗り込み、バスの揺れに踏ん張りながら立っていた。たまに新しい乗客が乗り込んではくるものの、停留所に止まる度にバスは軽くなっていった。
 町を抜けて周りに森や林が多くなってくる頃には、目の前の乗降口も静かになり、落ち着くことができた。人が通るたびに足を縮める必要はもうない。隣には少しアルコールの匂いを漂わせたインド人の男が目を閉じていた。寝ているようだ。
車内は既に照明が消されて、窓の外から差し込む月の光にぼんやり照らされていた。バスのエンジンの音だけがやけに大きく聞こえていた。細い道路を猛スピードでバスは走った。

 シムラに到着したのは午前5時半だった。バスのシートは意外に柔らかくて座り心地が良かったので、僅かながらも眠ることができた。少しふらつく足でステップを降り、背伸びをした。つられて欠伸も出てくる。太陽は山の向こう側にあるようで、辺りはまだそれほど明るくはない。山の斜面に作られた静かな町に薄青い煙が漂っているようだった。標高が高いので肌寒く、リュックから長袖のシャツを出してTシャツの上に着た。用心しないと、僕はすぐに腹を冷やしてしまうのだ。
 メインバススタンドは人で一杯だった。親子連れがベンチに座り、サリーを着た女性が地面に置いた荷物に腰掛け、それぞれ上手に身体を休めながらバスを待っていた。しかしこれだけの人数が居る割には、騒々しくはなかった。少し不気味に思いながら売店で熱いチャイを一杯飲み、冷えた胃袋が多少温まったことを確認してから、僕は歩き出した。レコンピオ行きのバスが出発するのはここではなく、リーボリ・バススタンドという所だからだ。場所がよく分からなかったが、とにかく歩くしかない。
 インドの人に道を尋ねるという行為には、常に危険性が伴う。言葉の壁以上に、彼らの性質とでも言ったら良いのか、悪く言えばいい加減、好意的に表現すれば過剰な親切心が問題になるのだ。彼らは時に、自分の知らない道であっても、さも分かっているかのように教えてくれる。そのせいで右往左往したことは一度や二度ではなかった。だが、それでも知らないことは聞くしかないのだ。
 早朝なので、数軒の食堂が開店の準備をしているくらいで、商店やホテルの並ぶ通りはひっそりしていた。運の良いことに、3人目に声を掛けた、6歳くらいの息子を連れた臙脂色のサリーの太った女性が途中まで案内してくれた。トンネルの前で一度立ち止まり、この向こう側だと無愛想に指で示して再び坂道を登っていってしまった。

 トンネルは200メートルほどあった。大きな間隔を空けて点る蛍光灯。薄暗い空間に緑色の光が充満していた。向こうに見える出口が白く光っている。日本でいうなら軽井沢のような閑静な避暑町のトンネルとはいえ、人気の無い薄暗い道を歩くことに抵抗があったが、意外にも(と言うと失礼であるが)きれいで落書きもごみもなく、ましてや寝ている人もいなかった。どうも、この国にいると必要以上に、暗く逃げ場の無い場所に敏感になってしまう。
 5分もかからずトンネルを抜けた。外の光に目が慣れるまでしばらくかかった。空はもう、すっかり明るくなっていた。右手の方に下り坂が続いていた。右の山側には木造の小さな商店やチャイ屋が長屋のように並んで、店の主人が品物を並べたり箒で店の前を掃いたりしていた。チャイを煮ている鍋から湯気が上がっている。ゆっくり坂を登ってくる人達とすれ違った。いつもの朝の風景なのだろう。
 程なく左の斜面に下へ降りる階段が見え、建物の屋根と止まっている数台のバスが木々の間に見えた。知らない町でこんなに順調に目的の場所が見つかったのは初めてのことだったので、少々拍子抜けしながら階段を下りて窓口に向かった。無意識のうちに、困難を求めるようになってしまったのだろうか。困ったことだ。
「今は行けない」にこりともせず窓口の男が言った。
「え?どうして?」
「レコンピオの手前の道が、最近の雨で崩れたんだ」男は表情を変えない。
「復旧まで、おそらく1週間か10日くらいはかかるだろう。多分」隣の男が言った。
「どうする?」男が無表情に聞いてくる。嫌がらせをされているような気分になってくるが、それは僕の精神状態がそう感じさせているためだ。彼らは常にクールである。
「どうしよう・・・」
 やはり、インドでは物事が簡単には運ばないようであった。僕は、シムラからスピティへ行くのを諦め、同日午前8時発のバスでマナリへ移動することに決めた。マナリ側からクンザン峠を越えるためだ。
 僕は来た道を引き返した。マナリへのバスは、メインバススタンドから出るのだ。所要時間は約9時間である。