4-07 ホスペット~マイソール

 気が付くと窓ガラスには無数の水滴が付いていた。何時の間にか眠ってしまっていたようだ。腕時計を見ると出発してからまだ2時間ほどしか経っていなかった。どこか小さな町の中を走っているようだった。雨を浴びて艶やかに濡れた町全体が、道路沿いの飲食店や雑貨店などの看板や店内の電灯を反射して湿っぽく輝き、街灯はなくてもそれなりに明るかった。舗装されていない道路に開いた穴や大きな凹みに溜まった水も大きな照明のようだった。目を凝らして外を見ると、今はもう雨は止んでいるようだ。歩いている人も見える。
 出発時の車内はひどい混みようだったが、今は幾つか空席がある。僕の隣もそうだ。乗り心地は最悪である。運転が荒いのだろう。段差の手前で減速しないので突然の衝撃の後にバスは大きく上下する。それでも昼間炎天下をしこたま歩いたせいで疲れていた僕は、走り始めてすぐに居眠りしてしまった。目が覚めてみると再び眠れるような乗り心地ではなかった。眠気を誘うどころか頭痛を引き起こしそうな振動である。
 何の前触れもなくバスが跳躍し腰が浮きそうになった。「おお」や「うわ」らしき単純な単音節の呻き声や舌打ちがあちこちから上がった。僕が座っているのは前寄りなのだが、バスは大抵後輪の位置よりも更に後部が長く突き出しているので、後部の縦の衝撃は前部の数倍に膨れ上がる。悪路を走行するバスの後部座席にはあまり乗りたがらないのがこの国では一般的であるのもそのせいである。今のジャンプは僕の位置で腰が浮きそうになったのだから、最後部で油断していた人なら天井に頭をぶつけても不思議ではない気がした。多分僕がそこに座っていたら、大抵いつもぼんやり考え事か居眠りをしているので、確実にぶつけている筈だ。
 案の定黒い折り畳み傘を持ったインド人男性が怒りの言葉を吐きながら運転席の方に詰め寄っていった。細かい揺れは相変わらず続いているので時折よろけてしまう。このバスには客室と運転席の間に仕切りはなかったので、運転手のすぐ傍で早口で抗議を始めた。
「お前のへぼな運転のせいで俺は頭を天井にぶつけたんだよ」
「うるせぇ、道が悪ぃんだ、一々文句言うな」
「何だと?とにかくあんな場所には座っていられない」
 男は運転席の反対側の座席に座っている人に場所を詰めさせて腰を据えた。車掌は苦情も仕方なしといった態度でやんわり男をなだめようとしていたようだが、男が割り込んで座ったのを見ると態度を一変させた。
「あんたの座席はそこじゃない。元の場所に戻れ」
「こんな運転されて一番後ろになんか座れねえよ」
「運転手の邪魔だ。戻れ」
「金払ってるんだから何処でも一緒だろ?」
「そこは3人掛けではない。いいか、俺は車掌だ。俺に従え。それが嫌ならバスを降りろ」
「何言ってるんだ、そんな、」
「戻れ。さもなきゃ今すぐ降りろ!」
 車掌が強い調子でそう言うと(2人の会話はヒンディー語なので皆目(かいもく)分からないが、声の調子と身振りから類推した)、男は余計に頭にきたらしく勢い良く立ち上がり大股で通路を歩くと、車掌を睨みながら真中より少し後ろの開いている座席に浅く座った。しかし10秒ほどで再び立ち上がり大声でバスを止めさせて降りていった。余程頭に来ていたのだろう。あんな奴らのバスにこれ以上乗っていられるか、といったところだろうか。もしかすると、本来降りる場所に近かったからこれ幸いとばかりにバスを降りたのかもしれないが、詳しいことは分からない。
 車内はしんとしてしまったが、相変わらず振動は続いている。しかし運転は少しマシになったようだ。

( India / 2002 )