3-02 夜の河

 今寝ている部屋は1泊50ルピーである。ベッドのシーツは比較的清潔だ。壁には据え付けの棚もある。だからあまり文句を言える立場ではない。それに宿の主人が言うには「涼しい部屋」なのだそうだ。今の時期は日差しが強烈なので、石やコンクリートで作られた建物は太陽光を目一杯受けるため内部に熱が篭(こも)ってしまう。その四階建ての宿の2階に位置するこの部屋は直接日光が当たることはないため、涼しいというのが主人の言い分だ。確かにそうなのだろうが、現在この街は気温自体が非常に高くなっているので、この“涼しい部屋”の恩恵は中々実感できていない。夜になってはいるものの、じっとりと暑い。
 しかし、この部屋はあまりにも狭い。幅90センチ程の木製観音開きの扉を開けると、ちょうどシングルベッドの横幅を一辺とした正方形のスペースがあり、右手は壁そのものが一面収納棚になっている。正面は目の前に壁。左手にはシングルベッドが置いてある。部屋の幅に隙間無くぴちりと嵌っている。部屋に合わせてベッドを探してきたのか、ベッドに合わせて部屋を作ったものか。これではウナギの寝床ならぬ、ドジョウの寝床である。ベッドの上で大の字になろうとしても手の先が壁に支(つか)えてしまう。天井に扇風機が付いていないのも、羽根が回るスペースが確保できないからだ。
 いくら寝に帰るだけの場所とはいえ、こんな部屋にいたら気が滅入り窒息してしまいそうになる。蝋燭の橙色のぼやぼやした灯りのせいで、余計に鬱々としてくる。この部屋では仄かに暖かな光を揺らす蝋燭の雰囲気も逆効果である。ちっとも癒されないし、落ち着かない。しかし何も好きで蝋燭を灯している訳ではない。停電なのだ。
 この街はしょっちゅう停電が起こる。州の電力供給が需要に追いつかないらしく、連日10時頃から午後8時頃まで停電が続いていた。街中真っ暗になり、電動機を回している店の多い商店街の辺りは比較的明るいものの、ガンジス川西岸沿いにぎっちりと立ち並んだ建物を縫うようにして縦横に走る細い路地などは、場所によっては目の前に人が立っていても気が付かないくらい暗い。この街は行方不明者が多く出るそうだが、なるほどこの暗闇の中に引き摺り込まれて、河に流されてしまったら見つからないだろう。

 兎も角、扇風機も動かないので蒸し暑いことこの上ない。前面のカバーが外れ剥き出しになった、埃がびっしり貼り付いた羽根が唸りを上げて回転する古い卓上扇風機も、動かなければ、メルヘンチックな薄水色のペンキで塗装された狭い空間を貧乏臭い独房へ変えてしまう只のオブジェに成り下がってしまう。動いたら動いたで羽根が外れて飛んで来るのではないかと不安になるような騒音と振動が部屋中に反響してとても喧(やかま)しいのだが。
 だから僕は避暑地を求めて階段を上った。屋上に出て、細い鉄の棒でできた梯子を伝って階段室の上に登る。この宿の天辺だ。周りの建物に比べても階段室の分だけ高くなっているようだった。奥行き2メートル、幅4メートル程のスペースで、梯子側にコンクリート製の手摺がある。反対側と右側は一段低くなっていて、その向こうは隣接する建物と屋上で繋がっているようであった。
 街は暗く、月もなく、かといって星もそれほど見えなかった。西、北、南の方向には、高さにして4階建てくらいの石やコンクリートでできた建物が雑然と犇(ひし)めき合っていた。見渡す限り、まるで細波(さざなみ)がそのまま固まってしまったような細かな凹凸の影が広がっていた。その中にポツリポツリと自家発電で生じた電気の明りが小さく光っていた。すぐ近くの建物の壁に、路地に置いてある何処かの店の照明によって奇妙に拡大された人影がもやもやと、現れては消えた。街中に響き渡る発動機の音は、まるで暗い水の底から湧き上がってくる亡者の低い呻きのようだった。
 東に目を転じると、100メートル程先まで建物の影が見え、その先はすっぱりと何もない空間になっていた。少ない星の明かりを反射させ、夜の大地に夜空を映し出している巨大なガンジス河が静かに流れていた。更にその向こうには、蒼闇色の夜の河と空に挟まれた漆黒の空間があった。聖なる河以上の広がりと圧倒的な無の存在感を持ったその闇の世界には、事実何もなかった。古来よりこの河の東側は不浄な土地とされて、人は住むことを放棄し、何も作らず誰も居ない場所になっていた。昼間はそれでも水浴びをする地元の若者や観光舟のための茶屋なども出ていたが、日が沈めばやはりそこは無の空間になる。
 夕方、太陽が市街地の向こうへ沈む頃、僕はその東岸にいた。茶屋から少し離れた場所で舟を降りて、何も無い砂地を少し歩いた。雨期になり河の水量が増加すればここは水の底に沈んでしまう。しかし、そのせいだからというにはあまりにも不毛過ぎる風景だった。木も生えず、少しばかり雑草が生えているだけで、ゴミが散乱していた。あちこちに落ちている白い破片は、流木か、何かの骨だろう。動物、あるいは人。対岸のガートにある火葬場で焼け残った骨か、水葬され身が朽ちた人の骨。
 波打際に死体を見た。水草とゴミに囲まれそれはぽかりと浮かんでいた。水に濡れ変色しているので本来の色は分からないが、灰緑に少し臙脂が混ざったような衣を着ていた。まだそれほど破損してなく、人の形を保っているようであった。仰向けになったその死体は、しかし、はちきれんばかりに膨張し人の輪郭から遥かに掛け離れていた。瞳の色が無くなってしまったのか、それとも瞼が膨らんでいるのだろうか、表情の無くなったその顔は、薄紫色になった空をじっと見上げていた。

 屋上には河からの風が吹いていた。心地よい涼しさだった。僕は手摺の上、幅50センチほどの場所に仰向けになった。細かく震える水面が凍りついてしまったような街。目の前には、河と同じような色をした空がある。すぐ傍では空と同じような光を放つ河が流れている。天と地が逆転する。見上げていたものが底になり、僕はその上に浮かんで空を見下ろしている。水底に星が瞬く。背後に人が通り過ぎ、流れ去って行く。影が揺らめく。水が流れる。低い音のうねりは未だ続いている。
 でも僕が存在している世界と眺めている世界、空と河を隔てているのは、やはり無の空間。不毛な死の世界。此岸の生と彼岸の死を分かつ、真っ暗な境界線が横たわっている。ならば生きるということは、そこから始まり、どこへ進んだとしてもやがて必ずそこに還っていくこというか。
 終ることのない、永遠の繰り返し。

 目を閉じた。眠りの底に沈んでいった。
 再び浮かび上がった時、僕は何処に流れ着いているのだろうか。

インド・バラナシ

( Varanasi / India / 2002 )