1-09 プノンペンの夜

 宿の横に隣接するビルの1階にあるインターネット屋で2、3通メールを送受信した。通信速度がやたらと遅いので思いの他時間がかかる。玄関外に置かれている長椅子には3人の欧米人が座ってパソコンが空くのを待っていた。すぐ先に見える、交差点の角に建つホテルのレストランは割合明るくて賑やかだが、一本細い通りに入ると街灯も殆どなくて、夜になると真っ暗になる。この辺りもそうだ。
 中々ページが開かないのでイライラして画面を眺めていたら、反対側の机のパソコンを使っていた女の子が立ち上がって店番をしている女性に料金を払い、僕の横にやって来て
「あのー、」
と控え目な様子で声を掛けてきた。一体どこの誰だと思いながら顔を上げその女性を見た僕の顔を確認して
「ですよね、やっぱり。こんばんは」
と言った。濃い青色のノースリーブのワンピースを着た、背の小さい眼鏡の女の子だった。
「いつこっちに来たの?私らは昨日」
 僕はあぁとかえぇとか言って誤魔化しながら、バンコクのカンボジア大使館にいた女の子だということを急いで思い出した。顔も少し日に焼けていたし、何よりあの時の無性別な東南アジア貧乏旅行的服装とは掛け離れた、ワンピース姿という女性的な格好だったので記憶の中の彼女と目の前の彼女がすぐに結びつかなかったのだ。
「それじゃ、また」
 立ち話をするような状況ではなかったので一通り再会の挨拶が済むと、彼女はガラスの嵌ったサッシ戸を開けて外に出ていき、入れ替わりに外で待っていた白人女性が入ってきた。僕の目の前のディスプレイは既にページを表示し終わっていた。

 ネット屋を出て、隣接する宿の暗い階段を上がり、通りに面したベランダ状の通路に出ると、赤と青のぺらぺらのプラスチックの椅子を向かい合わせに並べて、前の椅子に足を乗っけて涼んでいる宿のオジサンがいた。
彼の手前でパイプ椅子に座ってぼんやり下の通りを眺めている女の子がいて、誰かと思えば青いワンピースの彼女だった。僕に気が付いて
「あ。ここに泊まってるの?」
少し驚いた顔をして言った。僕も同じく驚いたと言って、近くにあったぎしぎしいうパイプ椅子に腰を下ろした。
「え?黒い?焼けてる?そう?シミになる?うーん、やばいかも」
「隣のキャピトル(ホテル兼食堂兼旅行代理店)でベトナムビザを取ってて、今それ待ち」
「移動が早いって?あの次の日にラオスビザも取れちゃったから。シェリ、シェムリアップは2日で。4人でタクシーシェアして、アンコールワットとか有名な所、1日で見ちゃったから。だってそんなに長く遺跡見たってしょうがないでしょ?え?5日券買うの?あ、そう・・・」
僕は3回目だというのに、5日券を買うつもりでいた。アンコールワットには1日券、3日券、1週間券の3種類の共通入場券があるのだ。僕はシェムリアップには明朝ボートで行く予定なのだが、彼女らはあちらからこちらへ何で移動したのか気になったので聞いてみた。
「ボートじゃなくてバス。安かったから。(シェムリアップから)ここまで7時間くらいかかったよ。(タイ国境からシェムリアップまでの道路に比べ)結構道悪かったなあ。でもほとんど寝てたけど」
そういえば、もう1人の子はどうしたのだろう。
「友達?ああ、それがさ、さっきご飯食べてた時にそこにいた白人の男の人とちょっとしゃべったりしてたんだけど、あの子そのまま一緒に飲みに行っちゃった。信じらんない。その人?よく分かんない。こっちで仕事してるとか言ってたけど。そうよねえ、なんかちょっとやばいよねえ」
う~ん。
「今日のお昼はバイタクであちこち観光してたんだけど、バイタクのお兄ちゃんが占い師のとこに連れてってくれて、占ってもらったの。なーんか怪しいんだけどねえ。そしたら、貴方は早いうちに結婚するでしょう、とか言われちゃった。どうしよう、就職してすぐ結婚したら絶対旅行になんか行けなくなっちゃうよ。え?相手?きっともうすぐ見つかったりするのよ~」
「今何時?あ、もうそんな時間か。あの子8時頃に帰ってくるって言ってたんだけどなあ」

 既に午後9時に近い。
 月の出ていない闇夜はやけに黒い。向かいのビルの1階は何やらの商店のようだが、上の階は人がいるのかいないのかの判断が困難だ。明かりの付いている窓もあれば、窓が嵌っていない場所もある。目と鼻の先にある大通りは、交通量は大分少なくなっている。時折バイクのバックファイアーの乾いた音が響く。知人がかつてプノンペンに居た時、この音を銃声と聞き間違えて怖かったと言っていた。アンコールワット周辺は観光客が年々急増し、治安も昔と比べて良くなりつつあるらしいが、未だにこの街は物騒であることに変わりはない。
「あ、バイタクの兄ちゃんだ。手振ってる。何だろ」
 彼女は階段を降りていった。すぐに彼女は宿の影から現れて、バイタク御用達の排気量200cc程度のバイクが数台停まっている斜め向かいの街灯の下に立って、ニコニコしながら手を振っている若者の傍に行った。僕は宿の2階の手摺にもたれながらそれを眺めていた。暫く立ち話をしていたが、彼女はこちらに戻り宿の影に見えなくなり、僕の傍の階段口から姿を現した。
「あの兄ちゃん、いい人でさあ。これから遊びに行こう行こうって言うから、ちょっと行ってくる。あの子?いいよ。帰ってこない方が悪い。こんなに待ったのに。え?あそうか、部屋の鍵どうしよう」
 いやな予感がする。
「ああ、ねえ、ここ泊まってるんだよねえ。もう寝ちゃう?よかったら鍵預かっててくれない?私らの部屋ここなんだけど(今いる廊下に面したすぐ横の部屋を指した)。あ、奥の方の部屋?近いじゃん。あの子に書き置きをドアに挟んでおくから。部屋番号教えて?帰ってきたら、私は昼間のバイタクの兄ちゃんと遊びに行ったって言っておいてね。一応書いておくけど」
 彼女はすらすらとメモを書き扉に挟むと、鍵を僕に渡して階段を降りていってしまった。暗いから気を付けてな、と言ってはみたものの、何だか相応しくないような気がした。もうすぐ結婚するという占いは当たるかも、旦那はカンボジア人かも、と思ったが口には出さなかった。
 2人はバイクで夜の町に走り去った。

 通路には、僕と涼んでいるオジサンだけになった。ふにゃふにゃの短パンにTシャツを着たオジサンは蚊が気になるらしく、しきりにぱちんぱちんやったり蚊取り線香の位置を調整していた。ここは本当に蚊が多く、さしもの僕でも被害は免れられないと思ったので部屋に戻ることにした。それに、オジサンと2人きりで夜空を眺めていてもあまり楽しくはない。
シャワーを浴びてベッドの上に仰向けになりぼんやりしていると、あの2人のことが少し心配になった。ここはプノンペンだ。単独で夜中に外出するのは如何なものか。危険だという確証もないが、安全だという保障もなく、何事も起こらなかったとしても結果論に過ぎない。真夜中近所のコンビニに立ち読みしに行ったり、コンパで酔っ払って終電で家に帰ったりするのとは訳が違うのだ。そんなことを考えながら、窓のない部屋で日記を書いていた。
誰かがノックしたので立ち上がって扉を開けると、太い横縞のTシャツを着たショートカットの女の子が立っていた。それほど酔っている感じには見えない。
「あ、どうも、あ、お久しぶりです」と彼女は言った。
「あの子、遊びに行っちゃったんでしょ?バイタクの人、色々話してくれて面白かったしいい人だったんだけど、ちょっと心配」
お互い様だ、と思う。
「え?私のことも心配してたんですか?なんかカクテルバーみたいな店に行って。うーん、そんなには面白くなかったです」
持て余していた部屋の鍵を返した。
「鍵、ありがとうございました。おやすみなさい」

 次の朝早いうちに僕は宿を出たので、その後の彼女達のことは分からない。肝の据わった彼女達のことだから期限内にベトナム、ラオスを抜けてタイに戻ったことだろう。2、3日は気になったが、すぐに忘れてしまった。

01-09-2

( Phnom Penh / Cambodia / 2002 )