1-02 ビザ取り

 バンコクにあるカンボジア大使館は少し分かり難い場所にある。15番の市バスに乗れば、すぐ近くに停留所があるので楽に行けたのだが、それに気が付いたのは後になってからだ。

01-02-1 この日はまず、市バスを乗り継ぎ大使館から相当離れた大通りにある地図上で目印と決めた建物付近で降りる予定だった。しかし初めての場所なのでその降りるべき目印の建物がどれかすら分からなかった。バンコクのバスは日本のように停留所の手前で名前をアナウンスすることなどないので、自分が降りるべき地点に近付いたら降車ボタンを押して運転手に主張しなくてはならない。車掌に頼めば教えてくれたりもするのだが、言葉が全く通じないことや、巧く通じたと思っても実は通じていなくて、とんでもない場所で降ろされたりする場合もままあった。
 吊革に掴まり背を屈めて窓の外の街並みを確かめながらきょろきょろしていると、水色のノースリーブを着た学生風の若いタイ人女性が英語で「何処で降りるのですか?」と聞いてくれた。目印としていた場所の名前を言って、僕の感覚ではそろそろ着きそうだったので「もうすぐ?」と尋ねると、「まだ先です。2本目の交差点の次の停留所で降りればその傍ですよ」と教えてくれた。僕は柄にもなくにっこり笑って礼を言った。
 だがちょうど交差点を横切っている時だったので、今の交差点から2本目なのか、次の交差点から2本目なのか判断できなくて、もう一度聞こうと思って彼女を探すと、今まさに長いストレートの髪をかきあげながらバスを降りるところだった。仕方なく、行き過ぎるよりはマシだろうと先程の交差点から2本目の停留所でバスを降りた。しかしどうやら間違ったようで、降りる予定だった場所ですら大使館まではかなりの距離があったのに、さらに豪く遠回りをする羽目になってしまった。

タイ・バンコク 王宮 暑い最中ようやく大使館に辿り着くと、白い小さなオフィスは査証(ビザ)の申請に来た人達で一杯だった。40人弱はいるだろうか。日本人は僕一人で、白、黒、黄色、褐色と実に様々な肌の色をした人がいた。両手で何冊もの旅券を鷲掴みにした旅行代理店の関係者が数人いるものの、僕のように自ら申請にやって来た個人旅行者が殆どで、窓口に向かって4箇所で180度方向転換するだらだらとした行列を作っていた。
 まず申請用紙を貰い必要事項を記入して、旅券のコピーが必要らしいのでコピーできる所を探すために外へ出た。オフィスの中は一応なりとも冷房が効いていたので、外に出るとむわりとした空気がうっとうしく感じられた。
 日本ならば適当に歩けば交番を見つけるより簡単にコンビニに行き着く。バンコク市内にも赤や緑の看板のコンビニをよく見かけるのだがこの辺りにはないようだった。そもそも見つけたとしてもバンコクのコンビニにはコピー機は置かれていない。どうしたものか思案していると、近くのガススタンドから旅券がコピーされた紙を持った白人男性が出てきた。中に入ると事務所の中にコピー機があったので、使わせてもらい大使館に戻って再び行列に加わった。
 日本人の背の低い女の子が2人並んでいた。2人ともよく似た背格好でTシャツ、短パン、サンダルといった非常にラフな服装だった。申請書の記入で四苦八苦していて、「旅券のコピーが必要だって。どうする?」などと話していたので、先程世話になったガススタンドを教えてあげると、連れ立って外に出て行ってしまった。
 暫くすると戻ってきて僕の後ろに並んだ。彼女らが外出している間に新しい申請者は来なかったのだ。せっかくなので愛想良く挨拶をして、世間話などで暇を潰すことにした。まだまだ待つ必要があったからだ。どういう訳だか、行列はちっとも前に進んでいない。
 2人は中京の方の大学に通う学生で、卒業旅行でこちらに来たそうだ。しかも20日間でタイ~カンボジア~ベトナム~ラオス~タイを周遊する予定だという。昨日日本からバンコクに到着して、早速各国の査証取得作業に取り掛かっていた。カンボジアとラオスの査証をバンコクで取り、ベトナムの査証はカンボジアで取るつもりだという。随分と急ぎ足の旅行である。こんなに短期間で査証の必要な国を旅するのなら事前に日本で取得するべきだと思うのだが、他人の旅をあれこれ言うのは野暮なので黙っていた。
「そんなに時間がないし、でも行ける時に行きたい所は行っておきたいから」
 細いプラスチック枠の眼鏡を掛けた、はっきりした形の眉をした女の子が言った。肩くらいまでの髪を後ろで一つに括っている。
「そうそう、就職しちゃったらもう行けないしね」
 大きい目をしたショートカットの女の子が言った。
「え?飛行機?いや、バスで行く予定」
「うちらお金もそんなにないんだよねぇ」
「カンボジアには行ったことあるの?そう、大変だっていうのは私らも聞いたけど。あ、今は道が穴だらけで橋が落ちていることもないの?」
「よかったよー」
「まぁさぁ、道悪くても寝てればいいんだしね」
「あ、これ同じ宿の人に書いてもらったんですけど、カンボジア情報とお勧めの宿」
 僕が数年前に泊まった、有名な日本人宿だった。
「え、この宿に泊まったことあるの?どうだった?汚いの?」
「じゃあ、やめとこっか」
「へー、海からもカンボジアに行けるの?でもバスの方が簡単なんでしょ?安いし。はあ、3回目だから違った道から行ってみたいと。ふーん」
「うちら、もうバスで一杯一杯。それしか知らないっていうか」
 旅程もやたらにハードだし、なんとなく旅慣れているように見えた。
「あー、いや、タイには一度来たことあるけど、他の国は初めて」
「私も」
「何とかなるよね、多分」
「そうそう。あんま考えてないよね」
「そのためにはビザを早く取らねば」
 その後、2人とも足をぽりぽり掻きながら蚊の話になり迷惑振りを熱く語ったので、君らは蚊に好かれて羨ましいよ、きっと蚊好みのいい匂いがするからやろうね、それに僕は大抵長ズボン穿いて蚊に隙など見せないようにしているからあまり刺されないよ、と言うと、
「えー?そんなわけないよ」
 と一笑に付されてしまった。

タイ・バンコク こんな調子で少しずつ前に進みながら1時間以上雑談をした。途中で眼鏡の女の子が冷房で冷えすぎて外で温まったりしているうちに、やっと順番が回ってきて申請書と旅券を提出することができた。
 それじゃあ気を付けて、と言って彼女達と別れた。
 帰りは来た時の5倍くらい効率的な道順と移動手段を採用し、歩く距離を3分の1に減らすことに成功した。

( Bangkok / Thailand / 2002 )